2002年8月25日日曜日

感動ハラスメント 24時間テレビ

■「24時間テレビ」という感動の押し付け番組についての雑文。


 いやいや…黄色いTシャツの季節というわけで、「24時間テレビ」がやって来た。

 毎年、この番組には、作られた感動とひねくれた批判が交錯する。で、私はひねくれた批判をしている部類でありまして、台風が早く来て、企画が台無しになることを願わずにはいられなかったものである。

 あの、えげつない「感動のおしつけ」がどうしても受け付けない。

 セクハラ(セクシャルハラスメント)、アルハラ(アルコールハラスメント)に次いで、カンハラ(感動ハラスメント)という概念ができてもいいんじゃないのか?

 これらはまさしく「悪の枢軸ハラスメント」でありまして、世の中から撲滅せにゃなりません。これこそが正義であります。まぁ正義ってのは不確かなもんだが、不正義ってのは比較的確かなことが多い。そして、この「24時間テレビ」は私には不正義に思えてならないのだ。


 まず、司会者が徳光和夫って時点で気に入らない。この巨人バカが司会者に選ばれる理由は、特技が「涙を自由自在に流せる」ということにあります(あと巨人への忠誠心)。「感動の押し売り」番組に適した人選だ。このバカ司会者の涙が「呼び水効果」をもたらす。製作者にとって、もってこいの司会者だ。

 近年の傾向として、盛り上げ効果を期待してか、アイドルが起用されることが多い。

 今年は去年に引き続き、モーニング娘。
 2000年はV6。
 1999年はSPEED。
 1998年はTOKIO。
 1997年はKinkiKids。

 熱狂的なファンは会場のボルテージを上げるのに便利なのであろう。

 さすがに、モーニング娘のオタクというのはカメラ映えしないせいか、あまりカメラに写されなかったが。(ってか、奴らの奇声が聞こえてくるだけでも気持ち悪いのだが)


 一番気に入らないのは、障害者をダシにして、感動をさせようという安易かつモラルのカケラもない姿勢だ。

 毎年毎年、どっかから障害者を引っ張り出してきては、試練を課して、それを乗り越えるという構図を描き、そこにタレントが茶化し程度に応援をする。障害者が一生懸命がんばっている姿を感動をさそうBGMと共に流す。

 障害者ががんばっている姿を見て心をうたれない人は恐らくそうはいないだろう(そこには自分よりも劣っている人ががんばっているという潜在的な思考があるかもしれないが)。それに目をつけた日テレは、番組制作のためにそれを悪用する。感動・視聴率稼ぎの道具として。

 視聴率こそが至上のものと考えている日テレは、日頃、障害者問題や社会問題に力を入れているのか?視聴率にならないものは作らないのが日テレじゃないか。


 昔の24時間テレビには、少しは世界の貧困問題や障害者問題などに焦点をあてて伝えようとする姿勢がみられたという。

 今ではどうか?
 ただ「お涙頂戴」路線で視聴率を取ることが至上なものとなっている。そして、その道具として、障害者は利用されている。まぁ、製作者の側は「その利用料として、集まった募金を障害者福祉のために恵んでやってるんだからいいじゃないか」と開き直っているようだ。募金する人間以上に製作者の側に「恵まれない奴らに恵んでやろう」という意識がこびりついているのだろう。

 今年、偽善・日テレの障害者メインディッシュとなったのは「日本初!車椅子でトライアスロンに挑戦」という企画の松原新さんという、不慮の事故で下半身麻痺してしまっている人。ホント、ご苦労様でした。


 次に指摘しなければならない点は、制作費(多元中継、人件費、セット・会場の費用、宣伝費…)と募金額、どちらが多いのか、ということだ。素人考えでも制作費が募金を圧倒していることがわかる。

 制作費をそのまま募金した方がよっぽどマシのように思える。

 それに、「24時間テレビ」の時間の間、日テレが電波を流さないほうが、テレビ局、家庭が使う電気の節約にもなる。さらには、番組による夜更かしをする人も減り、次の日も、影響なく、仕事、勉強、遊び、に有意義な時間を過ごせるだろう。
 「愛は地球を救う」とは24時間テレビのキャッチフレーズだが、こっちの方が、よっぽど地球にやさしく、地球を救っている。

 話は戻して…それでは、その膨大な制作費はどうやって埋め合わせするのか、というと「チャリティー企業」なるものからの広告費でまかなわれる。
 頻繁に流れるコマーシャル。特に、番組後半は嫌になるくらいCMが流れていた。視聴率が取れている時は、当然CM料も高いのだ。この時間、儲けどきなのである(規定回数を消費するためにラストで帳尻合わせしているって事情もあるだろう)。

 企業は、そんなに「チャリティー」したけりゃ日テレを経由せずに直接、寄付すればいいではないか?

 だいたい、企業ってのは大きくなればなるほど、利潤を追求しなきゃならんから、営利目的じゃなきゃ動かない。「募金します」って行為だけで何か魂胆があるのだ。そんな「ちゃりてぃ〜企業」が「チャリティーしてまっせ」ってな顔で、ガンガン宣伝流されたんじゃたまったものではない。

 日テレは「チャリティー」という冠を付けることで、スポンサーを獲得しやすいだろうし、あるいは、通常よりも上乗せして広告料を取っているのかもしれない。
 日テレは「愛は地球を救う」などという慈愛心に満ちた番組を作っていると見せかけて、普通の番組を作っているだけだ。いや、利益はもしかすると、いつも以上にあるかもしれない。しかも日テレは「チャリティーしてまっせ」っというわけでイメージアップにもつながる。

 まさしく「ちゃりてぃ〜日テレ」と「ちゃりてぃ〜企業」の共益状態だ。視聴者はどんな思惑があるにせよ、「チャリティー」という行為をしている。自腹切って、募金しており、「24時間テレビ」によって、現実に損害が出ている。
 しかし、「ちゃりてぃ〜日テレ」と「ちゃりてぃ〜企業」は違う。奴らにとって、痛いことなど、何一つない。あるのは利益だけである。
 企業は、広告料(名目上は寄付金?)から、「宣伝」と「イメージアップ」という見返りを差し引いて、どれだけ損害をこうむったというのか?

 24時間テレビが終わると、日テレは、「皆様から預かった募金に日本テレビからの寄付金を上乗せして、○○に寄付した」ってな発表がある。よっほど、「みなさ〜ん、私たちも、自腹を切って寄付しました」と言いたいんだろう。
 が、その寄付金は「ちゃりてぃ〜企業」からの広告料の一部ではないか?
 「自腹切りました」の真実は、「今回の“24時間テレビ”による利益の一部を、後ろめたいから、仕方なく寄付させてもらいます。」である。

 「ちゃりてぃ〜中毒」の日テレさんよ、日本テレビは「国産」として偽装行為をした雪印や日本ハムを「消費者に対する侮辱」と報道しているが、自分とこだって、「チャリティー偽装」して、「視聴者に対する侮辱」をしているじゃないか?

 しかし、一方は裁かれるが、他方は裁かれることはない。この「ちゃりてぃ〜」…もはや悲劇を通り越して、喜劇である。


 そして、募金だって、それほどきれいなものでもない。

 これはボランティアをした子に聞いた話だが、募金する人たちは会場では芸能人やテレビ中継がくるまで待機していたりする。芸能人も、中継のときに、ボランティアの子がやっているところをどかして、さもず〜とやってますってな顔をして、募金者と気さくに握手する。

 武道館に「応援に駆けつけてくれましたぁ〜」芸能人は、ビンとか貯金箱に入れられた小銭を寄付する。

 が、こんな不自然なことがあるだろうか?

 稼ぎが多い芸能人がセコセコと小銭を貯めてました、なんて設定無理がある。番組としては、視聴者が自分たちの寄付額があまりにも少なく、無力感を覚えることを恐れて、事前に用意した小銭を芸能人に渡すという演出をしているのであろう。番組としては募金額も大事だが、それ以上に、今後とも“都合のよい”視聴者であり続けることの方が大事なのである。これは、札束をドンと出すことは好感度を下げるだろうから、芸能人サイドの意向にも沿うものだ。


 さて、それから、マラソンである。

 毎年、毎年、よくも懲りずにやるもんだ。第一、何で走っているか全く意味がわからない。

 もはや、ヤケッパチになって、マラソン企画を続けているとしか思えない。マラソンに無理やり、特別な意味を持たせて、それを感動の物語にでっち上げる。「がんばれ〜」と視聴者に思わせる。

 今年は西村知美が走っていた。彼女に恨みは無いが、動機からしておかしいのだ。

 「自分に弱くて、根性なしの性格ですが、24時間マラソンに挑戦してその弱さを克服し、自分に自信をつけたい。」

 って何だそりゃ?

 そんなことは、勝手にやってください。何でわざわざ、こんな偽善番組に出て、汚れたマラソンせにゃならんのだ。

 途中、感動させるためのえげつないアナウンスが入る。

「153センチ42キロの体のどこからこんな力が出てきているのでしょうか?」

「このマラソンをやり遂げられたのもご主人、家族、ファンの皆様がいたからこそです。」

「23センチ小さくてやわらかい足で100キロを走りつづけて来ました」

 いったいどうしろというのか。

 徳光がすかさず、

「ある意味西尾さん(西村知美の旦那)との2人3脚ですねぇ」

 って、おいおい!

 お前ら製作者が「家族の絆」を演出するために、夫の西尾に「最後の方に迎えに行って、一緒に走ってください」って頼んだんだろうがよ!辻元清美の「ど忘れ禁止法、適用したいくらいですねぇ」という声が今にも聞こえてきそうだ。

 ご丁寧に、前振りとして、VTRでわざわざ、二人の出会いを流していたのを忘れたのだろうか。その後には、二人の思いでの曲である、さだまさしの『奇跡』をダンナは熱唱。

 アナウンス「もし西村さんが100キロを走りぬくことが出来たらそれは奇跡と呼べるのでしょうか?」

 …してやったりという感じだろうか。


 そんな演出された夫婦愛よりも、西村知美の白い上着から、スポーツブラが透けて見えたことの方が、よっぽど気になったんじゃないか。

 途中、歌を熱唱する。「でっかい宇宙に愛がある」、「負けないで」(←恒例)など…

 歌詞を聞いた上で選曲してるのだろうか。

 これに限らず応援ソングってのが挟まれるが、ただ時間調整、場つなぎとして歌を挟んでいるだけじゃねぇか。

 徳光曰く

「きっと西村さんにも届いているはずです」

 …もう、ええっちゅうねん!

 で、西村知美はまるで計ったように、番組終了の最後の最後、「サライ」を歌ってる最中にゴールしました。

 毎度のことだけど、すんげ〜演出。まぁ、単にランナーを先導する人が本部と緊密に連絡を取りつつ進めているというだけなんだが。
 疲労・痛みという名目で、休憩や減速…これらを最大限駆使し、うまいこと時間を調整している。それまで観客に手を振る余裕があったのに、ゴールに近づくと、急に足を引きずりだす。武道館に入った後はダンナに支えられて階段を降りてくる…

 アァ、スゴイ、スゴイ、ナンテキレイナ、フウフアイダロウ。



 今年、一番ツッコミを入れたのは、おデブの富士山登頂である。

 「おデブちゃんと呼ばないで!友情の富士山登山」というタイトル…デブというカッコでくくれますってだけで、どこに友情があったのかは全くわからないが、そういうことらしい。

 石塚英彦とおデブちゃん小学生が登山に挑戦という企画。

 デブだけでは、暑苦しくて絵面がキツイということなのか定かではないが、そこに、「モー娘。」の小川麻琴・新垣里沙が加えられる。

 登山の目的は、何でも、富士山に登ることを目標にしたトレーニングを通じてコンプレックスを克服すること。登山できればきっと自分に自信がつくって発想らしい。

 …これまたおかしいことを言っている。

 登頂を成功して、「デブにもこれだけのことができるんだ!」って自信をつけたり、自慢することが最終目的なのか。デブであるというコンプレックスを克服することよりも、痩せてデブではなくなることの方がよっぽど重要ではないか。丸々と太ったおデブちゃんには「午後は○○おもいっきりテレビ」でも見せて、少しは健康に気を使うようにさせた方がよい。

 石塚がキャスティングされてる時点でおかしい。コイツはデブであることで仕事を得ている特殊な人間なのだ。確かに、デブの生き様を見せ、自信をつけさすという企画の趣旨にはあっているのだろう。石塚のように、毒を吐かず、太ってて、タレ目だと「善人キャラ」に思われて、人生うまくやっていける、って教えたいのだろう。が、彼には痩せようという気は全く無いことを忘れてはならない。

 ようは、毎年恒例になっている山ネタを無理やり結び付けたいだけなのだ。だが、登山しましたってより、ダイエットを数ヶ月したりして、その成果を放送した方が、おデブちゃんのためには、よっぽどいい。

 障害者依存の番組体質の次は、デブ依存のようで、彼らに対して、優越感を持っていることがよくわかった。手法が露骨だなぁ。

 で、登頂計画の結果は、“天気が悪くて”登山失敗?(笑)

 これじゃ、何かのせいにしてダイエットを断念するデブ特有のロジックを身につけさせただけである。感動のために、デブを甘やかして、「よくやった」とは何事だ。そんなことで痩せられるなら、誰も中国製のダイエット食品の犠牲にはならない。



 …今日はこんなところです。

 あぁ…来年の「24時間テレビ」が楽しみ(って、おい!)。



��.S. まぁ正直、今年は最後の方を見て、後は番組ホームページをさらっと見ただけなんだけど。にしても、フィナーレ笑えた…えなりかずきの泣き面。こころから笑った。

 あと、雨上がり決死隊(特に宮迫)が会場全体に「知美コール」が起きてる時に、カメラが回ってきて、「と〜も〜み」と嫌々言っていたとこ。「宮迫のキャラ」と「その場の空気」との葛藤…趣がある。

 それから、谷村新司と加山雄三(ヅラ大将)も、わからないであろう歌を皆が歌ってる時に、急にカメラが来て、焦ってクチパクしだしたところも笑えた。オッサンにはわからないであろう曲なのに…その様子は、酸素を取りこむために水面で必死にパクパクしてる金魚みたい、趣がある。


24時間テレビ』(日本テレビ系列,2002年)


��追記)
「ハラスメント(harassment)」とは「嫌がらせ,悩ますこと」ぐらいの意味である。書いた当時は「ハラスメント」を「強要,押し付け」と解釈していた感がある。


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