2002年1月30日水曜日

新庄剛志・部落

■『噂の真相』(2002年3月号)「阪神と訣別してメジャーに転身した新庄剛志の秘められた差別との闘い」は衝撃的な内容だ。

■『噂の真相』によれば、メジャーに移籍した背景には、部落出身の新庄に対する球団ぐるみのいじめがあったそうだ。5年12億という破格の条件を蹴ってメジャーリーグに行った、1995年の現役引退騒動も、このいじめが原因だとか。

■おそらく、新庄が部落出身者というのは間違いはないだろう。部落かどうかは、かなり繊細な問題であり、憶測記事を書くわけにはいかないから。

■だが、阪神から差別を受けていたというのはどうだろう。確かに、一部では嫌がらせを受けたかもしれないが、それが移籍の理由になったとは考えにくい。阪神が嫌でメジャーに行ったのなら、日本から来た野球の子に「将来は阪神かメッツに入れるように頑張ってください」と言うだろうか?

■ともあれ、新庄が部落民であることは世間に広まった。『噂の眞相』は阪神の部落差別を告発したかったのかもしれない。しかし、結果として、新庄を部落民であることをアナウンスしていることにもなる。まぁ、それゆえにタブーになるわけだが、現実問題として、部落差別はなくなっていないわけで、いろいろ考えさせられる特集だ。


2002年1月13日日曜日

筑紫哲也・プロ野球

筑紫哲也がプロ野球と決別していたってんだから、ひとまずメモ。
筑紫哲也「さよなら職業野球」(週刊金曜日,第329号 2000.9.1)
 当然、シーズン中はプロ野球のファンとなる。年に何回かは球場にも足を運ぶ。
 この長年の習慣が、今年、私から消えつつある。まるで憑きものが落ちるように、潮が退いていくように、野球そのものに急に興味が失せつつある。ひいきの広島カープのスコアに目を向けることはあるが、悪いことに今年は主力選手が次々と故障で脱落していて、興味をつなぐのがむずかしい。
 こんなものに自分の関心と人生の一部を費やしてきたとは、私は何という阿呆だろうと気付かせてくれたのは巨人軍のおかげである。二軍でさえ下位球団より強いかもしれないほどの選手を金にあかせて集め、たとえばメイが阪神タイガースを手玉に取り、江藤がカープを決勝打で沈めるといった具合に、自分がいたチームをたたき伏せる光景は「興醒め」の一語に尽きる。チームを補強するのは企業努力として当然のこと、弱肉強食は世の常なのだと聞いたような論をまた聞かされるとなおさらである。その通りだろう。だが、「世の常」など見るためにスポーツなど要らない。日常のなかに、そんなものはいくらでもあるのだから、スポーツはそういう「世の常」をしばし忘れ去り、日常では見られない夢を見るためにあるのだ。なかではできがよいスポーツとは言えない野球の数少ないとりえは、弱者も時には強者に勝つ確率が高いことだ。それをしも、弱肉強食を構造化して抹殺してしまって何が残る。
 弱肉強食は世の常――というセリフ、よそでも近ごろよく聞くようになったと思ったら、何のことはない。「世界化」のとうとうたる流れを正当化する時の金科玉条だった。そう言えばどちらも原産地はアメリカで、悪しき国産化を遂げている点で共通している。



2002年1月2日水曜日

2001年11月ごろ〜2002年5月ごろ

■2001年11月ごろ〜2002年5月ごろ


 東京都の銀行の外形標準課税が違法とされた。 これに対して石原東京都知事が不愉快な発言をした。まず「裁判官はかなり変わった人だと聞いてましたけどねぇ」などと裁判官の人格攻撃、個人攻撃から入り、「民意に逆らった」など…とても行政のトップが司法に対する発言とは思えない。税は取れるところから…とは言うが、大衆迎合の石原氏はそれを極限までに利用している。「民意」に逆らうなと言うならば、裁判官など必要ない。
 銀行というのは国民の間では悪の代名詞みたいになっている。我々の血税による多額の公的資金の投入され、現在の経済の混迷を招いている諸悪の根源といったところであろうか…このような国民感情を利用し、銀行を狙い撃ちしたのが石原慎太郎である。彼…そして究極のポピュリスト田中真紀子、小泉純一郎…彼らが国民をどちらの方向に導くのか…我々は冷静にならなくてはならない地方の財源をどうするかが重要だが、「地方分権」という美辞麗句を振りかざし、独自の税で取りやすいところから、という手法が挫折した例となった。財政赤字をどうするか?国も地方も深刻である。東京都ではお台場のカジノ構想というものもある。増税では世論が反発すると考えたのだろうか?目的が金を巻き上げるためというのなら、あまりにも単純である。


辻元清美に対して、何だか同情的なのは何故だろうか?とりわけ、テレビメディアはそのような傾向があるように思える。活字メディアとテレビメディアでは乖離が生じている。これは田中真紀子の時と似ている。玄人ぶって、テレビメディアが感情的になり、迎合しているとか、いうつもりはない。しかし、何かを見落としているという気がせんでもない。

議員を辞職をして、党はやめない。辻元清美は珍しい、というが、これはけっこう得策なのではないか?例えば、加藤紘一は潔く辞職して、党に残れば、次に出直しても民意を背景にすれば、うまくいく。復党というのはなかなかやりずらいのではないか?鈴木宗男も比例区の下の方で当選という方向のほうが長生きできたかもしれない。そうそう、忘れてならないのが、この場合、党として、彼らをどう処罰するか、である。これを見落としてはならない。 このままいけば、辻元氏の場合、しばらく公認をしない、ということにはなるまい。

鈴木宗男のホームページに行ってみた…渋い顔した宗男チャンを見て思わず笑ってしまった。つっこみどころ満載で皆さんも潰れる前に是非見ておいて欲しい。

2月末の「朝まで生テレビ」を見て思ったこと。嫌いな奴が多かった、やはり宮崎哲弥は出ていた、多くが贈与税引き下げには積極的、気に入らん。 河村たかしが並の政治家ということがわかった。河村は私の地元名古屋の議員でずいぶんと前から自転車アピールで有名だった。危ない、危ない…彼を持ち上げていなくてよかった。今後も気をつけよ。 もっとも私がむかついたのは堀紘一である。 堀紘一は100%、明らかにズラである。「堀紘一」と書いて「ズラ」と読む、カツラ日本代表級の不自然さである。ズラが頭に乗っているという感じで、彼を操作してるのはきっとズラである(?)ネットで「堀紘一 ズラ」で検索したら、やはりヒットした(笑) やっぱり皆そう思っているのだ! この「ズルムケ堀」が偉そうに発言しているのを見るとおかしくてしょうがない。「古い」「不勉強だよ」と失礼かつ偉そうに言っている。古いのは堀のズラである。もみ上げのところまでハゲてるほどズルムケになっている。カツラが彼の頭をカバーしきれていない。安っぽいズラをつけているカツラ堀はあまりにもふびんで、もっと高いズラを買ってあげたくなる。

ハゲと言えば、以前取り上げた、ダパンプの一茶が最近は帽子をかぶっている。しばらくして、帽子を脱いだら毛が増えてるってことはないよね…増毛して

一方的に「悪の枢軸」発言をしたブッシュのバカ息子が親友面して、日本にやってきた。「アメリカ政府日本支店」と化しているは日本政府は、社長が来るってんで小泉支店長を筆頭にご機嫌を伺うために必死に御出迎えである(例えば直前にまとめたデフレ対策)。 世界に自分達の価値観を押し付けているというイメージを払拭するためか、ブッシュ社長は日本の文化に興味津々で、文化の多様性を理解している、といった役どころを演じている。その中で社長は支店長のおもてなしで、居酒屋に行くというパフォーマンスを見せた。人々に握手をする「気さくな大統領」がテレビからは映し出されていた。大統領選でも他にいいところが無いから「人柄」を前面に押し出したのを思い出させて、なんとも臭い。 そもそも、どう考えても、この「偶然いた一般客にブッシュ大統領が握手する」という設定には無理がある。もし、ブッシュを殺そうという輩がいたりしたらどうするつもりか?世界一の嫌われ者のアメリカ大統領がこんなセキュリティーが緩いなんてことはありえない。反米の私がもしこの中にいて、酔っ払っていたら、変な気を起こさない、とは限らない(笑、もちろん冗談ですよ) 実際に、この居酒屋は貸切というビラを出していたという。つまり、観客はサクラだったのである。そして、客は女性や子供が多くいたという。 「アメリカの大統領はいい人」と国民を洗脳する作戦である、このプロパガンダに積極的に外務省、日本政府が関与していたであろう事実は今更ながら、我々を失望させる。そして、マスコミは何故この事実をもっと報道しないで、この作戦の支援をするのか…これまた今更ながら残念である。

大仁田厚が堀内派に入った。自分のやりたいことをするには派閥に入らないと…みたいなことをぬかしておった。彼はプロレスでは危険な男を演じていたが、やはりプロレスでも政界でも安全第一なのだ。そもそも、政治家として、いったい何がしたいというのか? 前回の参院選はやはり最低だった。大橋巨泉といい、舛添要一、田島陽子…

「ここが変だよ!日本人」で捕鯨問題を取り上げてられていた。相変らず、欧米人というのは自分達の価値観を押し付けるところが気に入らなかった。中でもひどいのは、アメリカ人で自分達のことは棚上げし、動物保護などと言って干渉してくる奴等である。彼等が人間のエゴで生態系を壊し、絶滅の危機に瀕している種を守ろうというのはわからなくもない。 これはあまりにもナイーヴだが、自分達が、軍事産業利権、あるいはケインズ政策としての戦争を許し、人、動物、地球と生態系を攻撃するためにどれだけのミサイルを打ち込むことを許しているのか? にしても、アメリカはイラクやイランそして北朝鮮と一緒にエンロン疑惑や不況をふっ飛ばそうという魂胆だろうか?ますます嫌米、反米感情が世界的に大きくなることは、それこそ次なるテロを生むこととなる。このどうしようもない超大国をなんとかできないものか?

ここが変だよ!に出てるケビン何某というアメリカ人(ようはグラサンして一番調子こいてる奴)が本を出したらしい。タイトルは日本人がアメリカ人に勝てない理由などというなめたタイトルだったと思う(うろ覚え…)このクソ外人!ジャパニーズをなめんなよ!・・・・・すいません。取り乱しました。クソ外人と言えば、デーブ・スペクターも「朝生」で自分達の悪行を棚上げして、「あなた達は反米だと知識人のつもりでいる」的なことをぬかしておった。あぁ、おばかさん。

 12.31の「猪木軍VSK1」…う〜ん、何だかなぁ…あまりにもK−1側が不利すぎたんじゃないの?ただ、ファイナルの安田×バンナは…バンナが柔道やってるっていってたけど、どれくらい?柔道ではあごをひくのが基本ですよ?あまりにも首が無防備。 テレビ局は安田の娘との話を過剰に演出して少し臭くて、きつかったが、日本人的には勝ってよかったんじゃないの?

最近やっと星野率いる阪神にはがんばって欲しい、と思えるようになってきた。今年は中日を一番に、阪神を二番に応援していきたい。

それにしてもスポーツの解説っていんのかね?個人的には受け売りをしたり、知ったかを決め込む奴いると、うざったいからやめて欲しいんだけど。

谷繁が中日に来た代わりに「中日の金食い虫」中村武志が横浜にいくらしい。9割がた中日ファンってのは中日一筋できた中村には好意的なのだが、私は違う。私の素人評価では奴は「金に汚い上に役立たず」だ。まぁ…少しかわいそうだが…

名古屋のMKタクシーが売名行為で無料サービスをしているが、不評らしい。 それへのコメント(新聞に書いてあった?)として「名古屋の人ってのは立派な結婚式をするでしょう?体裁を気にするから利用しにくいんじゃないですか?大阪なら皆乗る」とぬかしておった。
 比較される大阪もたまったもんじゃないが、まだ大阪は自分達のケチという異質性を誇りに思っているし、ネタにもするぐらいだから許されよう。 しかし、名古屋の方は名古屋ッ子の俺としてはとても見過ごせない。結婚式が豪華なのはいわば文化じゃないの?それを取ってきて、全てが見栄っ張りとされたのではたまったもんじゃない。
 第一、MKタクシーは話題になる程度の数台しかタクシーを出していないのだ。人々がMKタクシーをわざわざ探すわけがない。手を上げて止まったのがたまたまMKタクシーだった、その程度のものだろう。

朝のテレビ番組って何であんなに占いばかりやってんの?まぁ、ありがちな感想だが、生まれた月や血液型で分けるのは単純化しすぎだろう。それなのに、「相手の意見もしっかり聞きましょう!」「金銭トラブルに注意しましょう!」といった忠告をしてくる。大きなお世話以外の何物でもない。これって皆歓迎しているのかな?

「東京大学」の名を悪用している菊川怜が調子こいて受験本を出した。何でも受験の秘訣なるものが書いてあるらしい。菊川は東大卒の知性派タレントということになっている。大江健三郎を建築家と思い込んでいた人間のどこに知性を求めたらいいのかわからないが、「受験科目さえできれば東大に入れる」ということがばれなきゃいいね。

受験本と言えば、寒い名前のコンビのアルカリ三世の「坂本ちゃん」も出していたぞ!冗談じゃない!東大を目指すと言っていたが、どの教科もセンター試験受験者の平均点すら取れなかったではないか?暗記科目である社会ぐらいは何とかなるだろう? つまり、勉強なんぞしていなかったんだな。そんな奴に受験の応援なんてしてもらっても何の力にもなりゃしない。 それに「日大文理」ってハチマキをいつまでさせとく気だ?「日本大学」の名をますます下げるだけじゃないのか? 坂本ちゃんが「ハチマキ」をつけるのには2つの効用があるのだろう。一つは受験キャラの強調。2つ目がハゲ隠しである。確実に彼はハゲている。かなり年いってるからね。それなのにあの口調やめて欲しい。「気持ち悪さ」をアピールしたいのかなぁ?年を考えてよ。

河村隆一は一体どこに行くのか?芸風が豹変した。確かに存在感がなくなってきてはいたが… 河村のファンはどう思ってんだろう?個人的には、昔のすましていた感じとは対照的で、今の必死さが滑稽。

何と!?紅白にあのオヤジタレント「えなりかずき」が出るらしい。「コメディーお江戸でござる」でのNHKへの貢献度なのか、オバチャン層の熱い後押しか、よほど人材不足なのか、定かではないが、「エナリって曲出していたんだね」というのが私の感想だ。「おいらに惚れちゃ怪我するぜ!」という曲らしい。 とりあえず、「そんな忠告は無用!」と世論を代表してツッコミをいれておこう。 ある馬鹿キャスターが「えなり君は誰からも嫌われないから…」などと心にも無い嘘発言をしていた。これには「コラコラ!待ったらんかい!俺は大嫌いじゃーい!」とついつい叫んでしまった。俺はエナリの「純朴さ」「オヤジキャラ」「古きよき時代」を前面に押し出した「あざとさ」が大嫌い。 これはちょっと前の人気コンビ「0930(オクサマ)」にも言えることだ。どこぞの音楽番組で「細い目は人に嫌われない」などとアホなことをぬかしておった。「マテ!マテ!ワシャ大嫌いじゃーい!」とこれまた叫んだものである。こいつらはいつまでも方言をわざとらしくも駆使し、「田舎の人=善人」という人間の潜在的な意識を悪用することで芸能界で生き残ろうとする「あざとい」人間である。まぁ、芸能界はキャラが大事だから仕方ないっちゃ〜仕方ないのだが。

DA PUMPのISSAがビューティーンというブリーチ(?)のCMに出ていた。これはキャスティング・ミスではないのか?と思えてならない。 一茶は頭がかなりきている(後退している)。「この商品で髪を染めると、髪の色は変わりますが、髪に負荷を与えます」「イッサのように頭が後退します」というメッセージのように思えてしまう。最近ISSAは髪を気にしてか、でこを見せなくなった。残念である。

何故、音楽をやっている人はあれほど平和や反戦について語りたがるのだろう?私の性質上、これは偽善ではないかしらん?と疑ってしまうし、妙な気持ち悪さを感ずる。ジョン・レノンの流れなのかな?平和を語ることがクールであると勘違いしてか?
 いずれにせよ、人々が平和について考えるきっかけとなれば、彼等の偽善は意味があることなのだろうが、彼等を信ずるのは待った方がよい…

「キング・オブ・御用学者」の称号を持つ加藤寛氏(千葉商科大学学長)と小泉純一郎首相は師弟関係らしい。慶応大学生時代の加藤氏は助教授で小泉氏は何回も質問に行ったという…現在でも師弟関係は続いているらしいぞ。「加藤寛=財務省=小泉純一郎」のラインは健在らしい。この影響で今の小泉氏はおかしくなったのかな?

ベストセラーの「チーズはどこへ消えた?」の出版先の扶桑社がパロディー本「バターはどこへ消えた?」を出版した道出版を訴えてた件で、東京地裁は出版差し止めを道出版に対して命じたと。う〜ん。これまでもコバンザメ商法的にやってるケースってのはあったでしょ?一体どういった線引きをしてんだろう?どこがどう違うのか?結局は裁判官の裁量次第?誰かおせえて!

星野仙一が阪神行きを決定した。う〜ん。複雑極まりない。阪神の監督になって星野の名誉を汚さないかなぁ…心配だなぁ… にしても、野村にしろ、星野にせよ、阪神の監督の人選っておかしいぞ!何で引退した人間をすぐに引っ張っていくんだよ!阪神OBにだっていい奴いんだろうよ!オノレェェェェェェェェェェェェェェェェェェ!いくら弱いからって何でもしていいというわけじゃないぞ!!!!!!! ハァ…もういいや。既に、週刊誌とかでは星野叩きが始まってるし…腹立つなぁ…

またイスラエルでテロが起きて、イスラエルがパレスチナに報復をした。全くどうしたらいいのか…私はと言えば「国連が治安維持部隊を大量に送りこむとかできないのかなぁ…」などと思うくらいで非常に無力で悔しい思いをするばかりだ。「アメリカがいけない」とか「シャロンがいけない」という理由で報復を批判するだけではいけないのだが、他になすすべがない。「暴力では抑えつけても反発するだけ」と正論を吐いても、報復支持派の人は「不作為のままだともっとひどくなる」と反論する。「外交努力すべき」という意見もありそうだが、アラファト議長の力ではもはやハマスを抑えこむことなどできないことを考えると無意味に思える。

また、盗撮芸人の田代まさしがまた捕まった。これ自体もはやギャグじゃないかしらん、とさえ思える。田代まさしの子供がかわいそう。

今年から「経済白書」から「経済財政白書」に変わった。読みやすさ、前向きな分析が特徴らしい。と言っても、俺は経済白書を読んだことがないから比較はできないけど、わかりやすいことには間違いはない。今、読書中。

国債の増加が将来への不安を抱かせ、国民の消費マインドを冷やしているという議論を構造改革推進派は使いたがる。国債をそんなに国民が心配していたら、自民党支配などとっくに終っていたんじゃないの?国民はこの点に無頓着だった、そう考えるのが正当ではないか?今だって国民は財政赤字は自分のこととして考えていないのでは?マスコミが騒いでいただけ。(単純化し過ぎかもしれないが、)消費マインドが冷え込むのは「失業」への恐怖といった不況の影響以外のなにものでもないのではないか?

「ジンジャー」ってあんなので大騒ぎしていたの?たいしたことないじゃん。車が都市からなくなり、排気ガスがなくなるとか言ってるけど、同じくらい不健康極まりない物であるという点において、何も違いはない。

アメリカってイラク攻撃するのかなぁ…でも、国際世論がそれを許さないだろう。政治的な発言かな?北朝鮮にも何か核もってんじゃないかって疑って、査察させろと脅している。う〜ん説得力ないなぁ…っていうか都合が良すぎるよねアメリカ…自分は持ってんだもん。それともアメリカ自身が標的になることは当然だから、おびえてるのかな?嫌われてることを自覚しているんだったら、もっと柔軟な対応ができないかしらん。
 俺はシャロン(イスラエル首相)にものすごく怒りを覚えている。自分で火種作っといて、「報復」と称して攻撃するんだぜ?冗談じゃない。まるで、どこぞの「ならず者国家」と同じ論理である。
 そうか!子供(イスラエル)は親(アメリカ)に似るんだね。
戦争、テロ…ほんと、目をそらしたい現実ばかりだ。テロリスト達もブッシュもシャロンも消えて欲しい。少なくともアメリカが世界のリーダーである限り、永久に世界に平和などきやしない。

アメリカはタリバンのオマル師をアメリカの裁判にかけると言っている。勝者が敗者を裁く裁判?公正な裁判なんてできるのかなぁ?
んん?こんなのどこかで聞いたことがあるぞ!自由主義史観の皆さん!東京裁判の過ちを繰り返しちゃいますよ〜いいんですか?

' masとよく見かけるけど、あれは誤りで、正しくはXmasだよね。
←これがいらない。「アポストロフィ」だっけ?

��2月になったせいか、急にイルミネーションがすごくなってきたよね。電力がもったいない!と思いつつもニヤニヤ喜んでて、「俺はキリスト教じゃない」とか「そもそもクリスマスとはおもちゃ会社の陰謀で…」とか言いつつもクリスマスを喜んでいる無宗教タイプのバカで20歳の♂

ユニクロも既にブランド化しつつある。でもあそこで買った服って人とかぶらないのかなぁ〜ユニクロ成長神話?そんなものは終ったよ。少なくとも日本では。柳井正社長も認めてんじゃん。これからは海外市場狙いでしょう?それにユニクロ方式なんてだれだって真似できるよ。
 それにしても、何で柳井正って経済に口出ししてくんの?守られた産業で生き残った物はないだなんて偉そうなこと言ってくれるじゃないの…しょせんは自分の会社を正当化しようとしてるだけだろ?「日本の雇用を守れ!」って右翼にでも脅迫されてんのかな(笑)

星野仙一がタテジマのユニフォームを着ている姿をホント見たくない。しかし、彼がなるのには「球界のため」という大義名分があるからなぁ…中日の星野でいつ続けて欲しい。

リチャード・クーと竹中平蔵はいつのまにか論敵みたいな感じでとらえられていて、日曜日は討論番組を一緒にはしごすることがある。どっちがいい?って聞かれたら、どっちも嫌だ、と私は答える。

都市と地方の対立を煽る政治家を最近よく見る。都市の立場から煽っているのが石原慎太郎である。ホテル税などその典型だ。いわば首都であり大都市である東京に来ざるをえない地方の現状を考えていないので、当然地方の反発にあう。どう考えても、片山鳥取県知事の意見の方が正論である。それから、東京に入ってくる車に税金を取るなんてバカなことも考えていたっけ?これも、電力等を都市に供給している地方の反発にあった。 地方の立場から煽っているのは、利権を持つ抵抗勢力である。彼等は「地方…地方…」というくせに地方分権の主張などはしない、中央の国会議員としての利権が減るからだろう。利権に目のくらみ、ただ対立を煽るだけ。 どちらも迷惑な政治家たち。

そういえば、石原都知事は東京に原発を作ってもよい、みたいなことを言っていたなぁ…ようは地方に対して「原発なんて安全なんだ。だから原発を持っているからといって威張るな!補助金をやってんだ!黙ってろ!」とでも言いたいんだろうな。現実に東京に作れるわけがない。俺はこういう無責任な発言をする彼のふてぶてしさが嫌い。都市のエゴ以外の何物でもない。彼のようなマッチョ志向の強い政治家が人気があるってのは、やはり日本は病んでいるのかな?それとも従来の政治家があまりにも情けなかったことへの反動か? それとも家父長的なものに男達は憧れを感じているのか?

猪瀬直樹はそのうち政治家になるぞ!権力に色目を使い出した。

不良債権の処理ってほんと難しいが、これをすればバラ色の未来が待っているかのように考えてる人間が多い。非合理な企業が淘汰されることはいいことかもしれないが、その前提として雇用の受け皿があることが重要だ。しかし、政府は淘汰されることに拍手を送っているだけで、政府がやるべきこと、つまり、新産業創出のため努力や規制緩和を本当にしているのか?という疑問がある。「530万人雇用創出」というのも、希望的観測の域を脱していないような気がしてならない。

田原総一郎の後継者は評論家の宮崎哲弥とみた。かなりの確率だと私は思っている。

100円ショップって環境には悪いよね?安いからって物を大切に使わなくなっちゃう。安くても環境のことを考えて大事に使って欲しいものだ。たしか「松本紳助」(日本テレビ系)というテレビ番組で島田紳助が松本人志に「傘ってかさばるやん?だから100円ショップで買った安い傘を使い終わった場所で捨てていく」などとアホ日本代表級のアホ発言をしていた。サンデープロジェクトのコネを使ってか、このアホは「もう5〜6年したら、政治家になるかもしれん」とも発言している。アホの欲望天井知らず、である。サンプロでも頓珍漢な発言ばかりしおって。
 しかし、今の日本では彼が政治家になれる可能性十分にある。こんなレベルの奴が政治家になるんだから日本の未来は…

 そうそう、「日本の未来」で思い出した。かなり古い歌だが、「モーニング娘。」の「ラブマシーン」という曲の中に「日本の未来は世界がうらやむ」って歌詞あったでしょ?俺は非常にそこが印象に残っているんだよね。このままで日本の未来が明るいはずがない。「つんく♂」がどんなつもりでこんな歌詞を書いたか聞きたいもんだ(どうせ、何も考えてないんだろうけどね)。
 森永卓郎的に言えば、「ええじゃないか」的なノリなのかな?現実逃避で楽観主義?ホント真剣に日本の未来を考えていく必要があるぞ?もう経済大国は無理なんだから、その後のことを考えないと。これから来る「少子高齢時代」をいかに豊かな生活を目指すのか、日本がどのような国を目指すのか、を…
 俺は安保マニアや保守の人が近視眼的な国防のことしか考えていないんじゃないか、いつもそんな懸念を持っている。
 日本のプレゼンスがなくなりつつある今日…そうなったら、彼等のはけ口がどこにいくのか…今でさえ外国人の犯罪、中国への工場移転による空洞化の影響などで仕事が取られているという悪いイメージを持っている人が多い。このような感情につけこんでくるのが石原慎太郎を始めオールド保守である。これには注意が必要だ。アジアで置いてきぼりにならないかも心配。


2002年1月1日火曜日

田中真紀子

2001.01.14
 「首相になって欲しい政治家は?」というアンケートでは、田中真紀子が一番人気だ。なるほど、彼女は明確な批判をするので、今日政党不信となって、政党不信に陥っている人々が彼女に引き付けけられるのもうなずける。
 森総理はダメ!派閥はダメ!と庶民感覚に訴えかけるだけで、田中真紀子という人物は国民的人気を得ることができる。ずいぶんと楽な身分である。言いたいことをはっきり言うから首相に…という論理で国民が田中真紀子の名前をあげているのであれば、大いに問題である。
 僕にはとても田中真紀子が政治家として優れているとは思えないし、そもそも彼女の言動が信用できない。省庁再編にともなって、森内閣の再組閣した時、彼女はどうしたか?
 森内閣での大臣ポストに目がくらみ、組閣前には森総理批判はトーンダウンしたし、加藤紘一の森内閣に対する倒閣騒動、いわゆる「加藤の乱」の際も不信任案に反対したではないか?
 森内閣支持率低迷の解決として、田中真紀子を入閣させようという動きがあった。さんざん批判してきた田中真紀子は、森内閣に入るために、自分の言動を引っ込めた。ダメだと言い続けてきた森内閣の担ぎ役として支持率アップに力を貸そうとしたのだ。この事件で彼女は持ち前の変節ぶりを存分に発揮した。
 「加藤の乱」においては、森内閣不信任案に反対した理由として、自民党が信任した総理に対して反対はできない、と語った。ならば、マスコミに対して自分自身がとっている行動をどう説明するのか?そんな人物に政治家の道徳を語るべきではない。
 彼女は石原伸晃らが作る「自民党の明日を創る会」に参加していた時に、議員らに対して派閥を出るように発言した。自分だけが特権的な地位にいることを忘れているようである。
 二世議員でもなく地盤が無く、金もなく、知名度も、人気もない政治家が議員を続けることの難しさを理解した上での発言とは思えない。そのような持たざる人間は派閥に入り、その恩恵にすがるしか道は無い。無派閥ならば、職を失うし、党内での存在も弱くなってしまうし、何も行動できないのだ。政策の実現するためには党内で多数派にならないと実現できない。
 派閥を辞めろという理想論も結構だが、そんなことは評論家にまかせ、政治家である以上これらの自民党末期状況をどうするかを考えて欲しいし、その解決策を得意のマスコミを通じて発信してほしいものだ。他の政治家と違って、彼女には発言する場所があるのだから…
 きれいごとだけではどんな正論であろうと、政策実現はできない。実際、彼女は政治家になって何をし、どんな実績を残したのか?そもそも彼女に政策や政治家としてのヴィジョンを持ち合わせているのか?マスコミにもてはやされ、いいように利用され、ミーハーな国民の人気を得て、鬼の首でも取ったかのように自慢顔で評論活動を行って、いつまでも自己満足しているようでは話にならない。
 父である田中角栄を裏切った竹下登の流れを持つ橋本派が未だに自民党を支配しているという事実がおもしろくないのはよくわかる。だが、彼女の父、角栄は自民党の腐敗、橋本派支配と全く無関係ではない。田中角栄が首相として、キングメーカーとして、今日まで続いているミニ角栄たちの金権政治を生み、自民党、そして日本の政治を駄目にし、現在の病んだ自民党を作った元凶であるのだ。田中真紀子は自分自身の努力や才能ではなく、父のおかげで政治家になれた。自民党がダメだ、と言うのであらば、未だに父の地盤から選挙に出馬し、いいとこだけ二世議員として父の名前を利用するのではなく、父田中角栄が残した現在の日本政治に対する膨大な負の遺産を少しでも清算したらどうか。自民党改革が不可能ならば、自ら新党を作り、父が駄目にして、政党としての寿命の尽きた自民党に責任を持って引導を渡してやればいい。ともかく、口先ばかりの「評論家」ではなく、「政治家」になるべきだ。


首相公選制QandA

たしか…2001年6月ごろの文章。
小泉内閣が発足した頃だ。サークルの新入生勧誘のために書いたもの。森喜朗の登場によって、「首相公選論」が脚光を浴びた時代ですね。最近ではすっかり聞かなくなってしまったけど。しょせん首相公選論は、政党政治の行き詰まりがもたらした一時的なブームだったのでしょう。
 ちなみに僕は首相公選制に対しては明確に反対だった。したがって、かなり恣意的な「QandA」になっている。
 
 ☆最近、「首相公選制」という言葉をよく耳にしませんか?
 首相公選制は中曽根康弘氏が1960年前後に提唱しており、別に新しいものではありません。彼は派閥政治の打破、「大臣待ち議員」制度を批判しました。しかし、当時は人気投票の恐れ、天皇制との関係などが指摘され、少数意見にとどまりました。
 しかし、約40年の月日を経た現在、「首相公選論は不死鳥のようによみがえる」と中曽根氏が言ったように、最大の盛り上がりをみせ始めています。「密室」という言葉のとおり、選出が不透明と批判され、終始不人気であった森内閣。国民主権と言われながら、自民党大派閥の一部幹部によって決められること、内閣総理大臣がコロコロと変わってしまうことへの不満、そして国民が何ら関与できない不満が首相公選への期待を高めたのでしょう。
 また、石原東京都知事、長野の田中康夫長野県知事、そして宮城の浅野史郎氏、三重の北川正恭氏、高知の橋本大二郎氏らなど、地方ではリーダーシップを発揮している(?)名物知事が現れており、それと首相を比較すると、いかに首相が情けないのかを嘆き、直接選んだからリーダシップが発揮しているのだとと考えたということもありましょう。
 首相公選論は小泉氏のかねての持論で、総裁選の討論会でも導入を主張していたし、首相就任後には私的諮問機関を設けて具体的検討に入ることを明らかにしていました。小泉総理は首相公選だけの憲法改正ならば国民の理解はえやすいとして首相公選制の導入にいよくをみせています。首相公選制は党派を超えて賛同する意見が多く、国民からも広く支持を集めています。今後も議論が高まりそうなんで、ここらで少し勉強しときましょう…
Q. そもそも首相公選制って何?
A. ものすごく短絡的に言ってしまえば、首相を直接国民が投票で選ぶこと。現在日本は議院内閣制度を採用しているため、国民は直接的には選べません。首相公選制については具体的な中身によって、その性質も機能も変わってきていますが、(例えば、公選首相に国会の解散権、法案の拒否権などの権限を与えるのか、国会は首相不信任案提出権をもつのか、国民は首相をリコールできるのか、任期は何年で再選は何回までか…など)。  
 最近の調査では大半の人が首相公選制に賛成していますが、どのような制度を想定して賛成と言っているのかはわかりませんし、まだまだ国民的な議論になっておらず、「国民が直接選べる」という耳障りのよい言葉に飛びついているだけという感は否定できません。
��.首相公選制のメリット、デメリットは?
��.まず、首相公選制の長所は…
・国民が直接選べることによって、選挙結果に対し国民が責任と義務を持ち、政治への参加意識も高まる、国民の政治的レベルの向上(?)
・首相が政争の影響を受けず、人事権などの権限を行使できる。
・長期的に選挙区の利害にとらわれない日本としての国家戦略を実行できる。
・ 明確な三権分立となる。
・ 政治と一般市民との距離感が縮まる。
・ 首相選出前に政策・政治姿勢がはっきりする。
 そして、短所は…
・ 人気投票になり、首相の資質がない人物が選ばれる可能性がある。
・ ポピュリズム(大衆迎合主義)になりやすい。
・ 独裁政治につながる危険性がある。
・ 議会との一体性がないため、大きな改革がやりにくい。
・ マスコミによってますます国政が左右されやすくなる。
・ 公選された首相の支持政党が国会で過半数をとれない場合、もしくは首相と国会の意思が対立した場合に、政治が行き詰まる。
・ 総与党化現象してしまった場合、国会の空洞化の恐れがある。
・ 国会議員がますます矮小化し、族議員化する。
・ 国会がますます形骸化されていく。
��.首相公選制にするにはどうすればいいのか?
��.憲法において日本は議員内閣制であることが明記してあります。憲法の条文を見ると、特に憲法次の部分が引っかかってきます。
『天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する(6条)』
『内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する(67条)』
 そして憲法を改正するためには、国会議員の衆参両議院において、総議員の3分の2が賛成して国民に対して発議し、その上、国民投票によって過半数の賛成を得なければ憲法の改正ができません。改正しなくてもお得意の拡大解釈などを使えばできないわけでもありませんが、現実的ではありません。首相公選制にするにはやはり憲法の改正が必要です。日本の場合、憲法改正というとどうしても憲法9条問題が出てきてしまい、理性的な議論ができなくなっているという現実があります。 
��.実現のその可能性は?
��.「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調、亀井正夫会長)が実施した国会議員アンケート(衆参両院議員のうち48.3%が回答)では、全体の54.1%が首相公選を「前向きに検討すべきだ」と答え、「現時点では必要はない」の30%を大きく上回りました。自民党では「前向き」が42.6%にとどまりましたが、民主党では73.6%にのぼっています。自民党では国会議員のみが持つ、総理大臣指名権を放棄してもよい、とはなかなかいかないようです。しかし、YKKをはじめ、若手議員にも賛成論が広がっています。民主党では嶋山由紀夫代表が賛成派で、彼は改憲の大きな理由として首相公選をあげています。菅直人幹事長も前向きに検討すべき、としています。公明党の支持母体である創価学会の池田大作名誉会長も首相公選には前向きです。これに対して、代表的な反対派は小沢一郎氏です。イギリスの例を挙げて、政治家の指導力は直接投票でないとリーダーシップが発揮できないというのはおかしいと言っています。共産党は以前から独裁的な強権政治の基盤になる危険があるとして反対していますし、社民党も議院内閣制を形骸化し、行政優位の官僚制や危機管理対策をますます強めることになる、として反対しています。共産党、社民党の両党には、首相公選論で憲法改正の呼び水となり、九条改正に道を開くのではないかという警戒感があります。結論を言ってしまえば、どの世論調査を見ても、国民の過半数の賛成は得られるのは間違いないようです。しかし、国会議員の3分の2は現段階では無理のようです。
��.首相公選制をやっている国は?
��.ありません。少し前まではイスラエルが首相公選制を採用していましたが、有権者が首相選挙と国会議員の総選挙では異なった党派に投票するため、政治の安定を確保できなくなって廃止となりました。しかし、イスラエルと日本では政治の状況が全く異なるので、単純にイスラエルでダメだったから日本でもダメということにはなりません。
��.首相公選制の場合、元首はどうなるのか?
��.まず、何をもって「元首」と称するかが明確ではないように思えます。対外的に代表権を持つことが元首と規定するならば、大統領制にしなくとも、現在の憲法のもとでは元首は既に首相であろうと思います。また、元首という概念は、歴史的かつ相対的な概念とも考えられます。外務省などは外国に対して、元首は天皇であると説明しているようですし、一般的にも何となく「元首」は天皇と思われていますが、仮に天皇を「元首」と称したとしても、憲法に規定されていること以外のことを天皇は行うことはできません。もともと日本では天皇制は権威の象徴であり、天皇はまさに歴史を通じた日本の象徴であり、その天皇が現世の代表としての公選首相を任命しても何ら問題は生じません。また、三権分立の原則に立てば、首相は国家の統治権のうち行政権を担当する最高責任者にすぎず、直接主権者である国民に選ばれたといっても、君主制の国では国家元首になることはないのです。国家元首の問題、選ばれた首相が天皇制の廃止を主張したら…など細かい議論をしだしたらきりがありませんのでここでは省略させてもらいます。いずれにせよ、このことが首相公選制の有力な反対意見にはなりえません。
��.現状制度の改革で解決できる処方箋はないのか?
��.例えば、内閣機能の強化が考えられます
・内閣法改正で首相の権限を明確にし、官邸機能を強化する。
・官僚と与党各部会による縦割り型、部分利益の積み上げ方式を改め、首相/内閣が優先順位をつけ、政策の 総合性・整合性・戦略性を確保する。
・与党の実力者全員が内閣に入り、政府・与党を名実ともに一体化させる。
「議院内閣制」が正しく機能すれば、議会多数を持つ与党が内閣を構成している以上は、本来首相は強力に政策を推進できるはず。
次に首相選出プロセスの透明化があると思います。
・総選挙を実質的に次期首相を選ぶ選挙とする。(選挙後の話し合いでは決めない)有権者は政党を選ぶことを通じ、各政党は、首相候補者を明確にして党首を首相として選ぶ(間接的首相公選制)但し、完全小選挙区制に制度改革する必要あり。(現在は比例代表並立制)
・総裁/党首選挙の活性化。情報公開の徹底と政策論争の活性化と公約の実施状況をフォローアップ・公開し、民意を問うシステムを確立する。
 その他、憲法15条は国民の公務員選定・罷免権を規定していますので、国会議員、さらには首相のリコール制度を容認することもできるのではないでしょうか。リコール制度を導入すれば、国会議員も、全体の奉仕者たる責務に目覚めてくれるのではないでしょうか…


小泉首相と首相公選制

2001.06.23
 自民党の「改革」を旗印に小泉内閣が、異常なまでの追い風をうけて好スタートした。前内閣が不信のどん底にあえいでいたのと比べると、これが同じ自民党を軸とする政権かと、見間違えんばかりである
 この高支持率は、森前総理への不支持からの反動、自民党に対する嫌悪感のあらわれであろう。もはや、国民は自民党に対する怒りが爆発しそうであった。
 総裁選において、一番具体策のない小泉氏が総理になったのは、その空気を感じ取り、脱派閥宣言をした嗅覚は優れていたと言えよう。
 小泉人気が、即自民党人気につながらない、と言われるが、それは必ずしもそうではない。実際は、自民党の支持率は上昇し始めた(もちろん「開かれた」総裁選を演出したこともあるが)。今回、見事に表紙の取替えに成功したわけである。
 しかし、森氏を擁護してた時、小泉氏自身も言っていたが、「表紙がかわっても中身が変わらなければ一緒」なのである。そこを見逃してはなるまい。
 「小泉さんは一種の首相公選制をやっちゃった」…YKKの盟友、加藤紘一氏は自民党総裁選小泉氏の選出をこう評した。小泉首相は、党員・党友の予備選という首相公選的仕組みから誕生したまさに時代の申し子と言えよう。しかし、これがミニ公選制の様相を呈したと評されたから、即座に首相公選制導入に結びつけるのは間違っている。
 今度の小泉内閣を見ていてつくづく首相公選制は時期尚早だと思った。小泉氏や田中真紀子氏などに対して質疑をおこなった野党議員に対して「いじめるな」だとか「答えられないような質問をするな」といった極めてレベルの低い抗議が殺到した。このような人達はおそらく今まで政治に無関心だったのであろう。田中真紀子がテレビに出てるってんで、政治に少し関心を持ったのだ。そして、この人達は小泉氏の高い支持率に対して何ら警戒していないし、批判を許さず、人気者に盲従する人達である。
 私は政治的無関心というのは重大な問題だと思っていて、国民の関心を集めさせたことが「小泉ワイドショー内閣」の最大の功であると思っていたが、今回の件で、それが最大の罪に変わりうることを十分に思い知らされた。
 今なら不思議なことに、衆議員選挙時に森総理が言ったように「関心が無いと言って寝ていてくれればいい」とさえ思えてしまう。そして小泉氏のやることが全て正しいと思っている人には一刻も早く再度お眠り頂きたいとさえ思う。
それに今は、急進的なことをやれば、リーダーシップだと勘違いしてしまっている。
そもそも、首相を直接選べばリーダーシップを発揮できるという考えは幻想である。議院内閣制の首相は、行政府の長であると同時に、立法府である国会で常に過半数を超える与党から支持されているわけで、(国会との対立の可能性のある)大統領制より、立法府においても、強力な指導力を発揮できる立場にあるはずである(行政府と立法府の対立の非生産性は、米国の例を見れば明らか)。
 にもかかわらず、首相のリーダーシップを発揮できないような状況にしているのは、党における党首のリーダーシップを認めさせない状況にあるせいだ。今、首相公選制が話題になる本質は、行政のトップが公選されないのが問題ではなく、政党政治に民意が反映していないのが問題なのであって、政治制度の問題ではない。
 首相公選制で政治のリーダーシップを回復させようというのはあまりに安直だ。わが国で政治の指導性が喪失された最大の要因は、リクルート事件から最近ではKSD事件と、あとをたたない政治スキャンダルだ。政治への信頼を政治の側で裏切ってきた。そもそも、首相公選制が何故これほどまでに支持を集めるようになったというのか?不透明な派閥主体の首相の選出…政策論争の空洞化…当選回数、派閥順送りの大臣の選出…主流、非主流による権力闘争に腐心し総裁のリーダーシップを認めない…このような政治をしてきたのは一体どこの、どの政党だというのか?
 首相公選制が支持されるのは議院内閣制がダメだからではない、いわゆる自民党的な政党政治(組織依存、地方と都会の意識のギャップ、陳情処理型・官僚丸投げ政策)がダメなのだ。そしてそれらが首相公選制によって、その欠陥が解消されるという根拠はどこにもない。
  国民は、その寿命の尽きた自民党を長年延命させ続けてきた。「今の政治はダメだ」「誰がやっても一緒」などと屁理屈を言って選挙に行かず、自民党を黙認し、変化を遅らせてきた。その国民が、首相公選制のもとで、直接選び、任せておけば、その選ばれた首相が国民に迎合することなく、何もかもよくしてくれるというのはあまりにも自分達の評価能力、政治レベルに対する過信であるし、都合のよい話である。
 国会議員選挙とは一つ目の意味は立法府の構成員を選出する選挙で、二つ目の意味は行政を担当する政党を選出する選挙なのである。テレビで流れる「森前総理密室選出」のように、自分達のあずかり知らぬところで選出されているのに激怒する前に、自分の手の届くところにいる、その選出を結果として許し自民党に居続けている候補者の存在に気付いてからにしてはどうか?(特に自民党内反自民という国民に媚びることをして自分の保身しか考えず、巧みに生き延びていこうとする輩などには目を光らせなければならなかった。)
 彼らは自分の手の届くところにいる。自分たちの怠惰を棚に上げ、リーダー待望論、首相公選制に飛びつくのは軽率だ。
 また、国民が直接選ぶことによって政治への関心が増す、という意見があるが、これには疑問が残る。国民の政治的無関心は先進国の共通の悩みではないか。直接選べば日本だけ直るというのはおかしい。
 公選されたら、政治に責任をもつようになる、というのもおかしい。例えば、かつて横山ノックや青島幸男に投票した人は本当に責任を感じていただろうか。そもそも、反省するような「常識」を持っている人ならはじめから投票しない。
 首相公選制は政治参加を促進させるという意見もあるが、公選制の導入はリーダー待望論の性質があり、「上からの革命」を望むものであって、国民の政治参加を自ら拒否している表れであるとも取れる。
 私は首相公選制に反対である。
  小泉氏は自らの党を改革すると言っているのであれば、首相公選制の意義を熱く語るなどの無駄な時間を費やすよりも前に、まず自分達から変えていったらどうか。もはや小泉氏は自民党内反自民では通用しない。
 小泉氏は「聖域なき構造改革」を旗印にし、何の根拠があってか、「構造改革なくしては景気回復はなし」と、小泉首相は再三にわたり力説している。自ら課した政策課題の中でも、首相公選制の優先度は必ずしも高くはないはずだ。マスコミや野党は具体策がないと批判してきた。小泉氏の言う「改革」は今や「平和」という語句同様、批判できない美辞麗句と化しており、何かにつけて「改革」を叫ぶ小泉氏を見ていると、森前総理が 「IT…IT…IT…」 と連呼していた日々がなつかしい。
 国民が小泉氏を選んだのは彼の持論の郵政三事業の民営化、首相公選制の導入、憲法改正、靖国神社参拝、そして経済政策に期待して彼を支持しているわけではない。そんなことよりも自民党的な政治からの脱却を表明した小泉氏を支持しているのだ。
また、首相公選論を利用して憲法改正論議に世論を誘導しようとする政治的思惑があることも、考慮しておく必要があるだろう。
 憲法問題での小泉氏の発言すべてが支持されているのかどうか、留意しておく必要がある。「脱派閥」に象徴される「永田町の変革」に圧倒的な支持が集まったのであって、憲法の個別的問題までが共鳴を呼んだのかどうか疑問が残るからだ。九条改正問題では、専守防衛を逸脱する恐れを指摘する声も根強い。憲法に対する関心が高まった今、大切なことは、性急に流されずに憲法を自分のこととして考え、じっくりと、納得できるまで論議を尽くすことである。
 「改革」を旗印に登場した小泉純一郎首相は、国会の代表質問でも、とりわけ憲法にかかわる積極的な発言が目立った。
 首相公選制の導入や憲法九条と集団的自衛権に言及するのは、憲法改正に慎重姿勢をとってきたこれまでの首相と比べても際立っている。
 首相の積極発言は、かねてからの持論と新内閣に対する高い支持率や国民の憲法意識の変化を汲み取ってのことだろう。
 戦後半世紀を過ぎても政治が国民の声を十分に汲み取らず、自民党の派閥によって首相が決まって行く現実に対する国民の不信、不満の表れである。
 だとすれば、憲法を改正し首相公選制を導入するという議論の前に、まず自民党の派閥解消や国会改革がなされるべきではないのか。議院内閣制を十分機能させる改革こそが必要なのではないか。
 戦後の平和と発展は、主権在民、平和主義、人権尊重という憲法の三原則が基本にあったからだ。「改憲」を急ぐ前に、憲法が十分に生かされているかどうかを検証してみてはいかがか?
  そもそも政治が機能不全に陥るのは制度に原因があるというよりも、政党や政治家の質に問題があるのではないか。政治の閉塞状況を打破しようと公選論を待望するのは、少し短絡過ぎはしないか。問題の先送りであり、実現したとしても政治の変革にはつながらないだろう。いま必要なのは制度改革ではなく国民の改革である。
 
 憲法をめぐる状況は、年ごとに改正へ歩調を強める傾向にある。多様な視点で多角的に論ずることは、もちろん必要だ。同時にムードに押し流される危険も見詰めていたい。
 そして半面、熱気の中で冷静な目を向けるにつけ、気掛かりがないではない。その一つは憲法に対する姿勢である。
そもそも、首相公選制に反対である.
私は護憲派ではないが、憲法改正をしやすくするために首相公選制の導入ならば、断固反対する。小泉氏はあきらかに
 「首相公選制のためだけの改正ならば、国民から理解されやすい。改正の手続きも鮮明になる」
これに配慮して小泉首相の口から九条改正が隠れ、首相公選制が前面に出たと察する。
 そして、山崎拓自民党幹事長の改憲試案発表だ。結果として政府のトップ、与党の幹部が共に積極的な改憲論者であることが鮮明となった。
 政府と与党が呼応するかのような改憲への踏み込んだ言動は珍しい。一つの転機となり得るだけの重みがある。
 九条と自衛隊の存在や集団自衛権の問題を決着させる、環境権や知る権利など新たな課題を位置づける、内閣制度の強化を図る…。提起される問題点は、多岐にわたっている。
 「改憲ありき」の発想が先に立ちやすいからである。どこを改めるかよりは、全般に改憲ムードが先行する風潮と言い換えてもいい。
 小泉発言もそうだ。当初は明らかに九条、いわゆる戦争放棄の規定を改める方向に力点が置かれた。それが首相公選制へと移っていく。その理由は、公選制の方が九条より国民の理解を得やすいことである。改正への入り口に何が抵抗感薄く、ふさわしいかの選択になっている。
  憲法改正を基軸に政界再編をにらむ意図がうかがえることも軽視できない。与党内に憲法観に開きがあるのはもちろん、野党も改正に積極的な自由党、護憲の共産、社民両党があり、民主党内には両論が混在している。
 与野党を横断した政界地図の塗り替えが可能かもしれない。とはいえそのための改正論は、国の在り方の骨格である憲法問題を政界再編の思惑にわい小化しかねない。
 ましてや改憲へ日程を早める好機ととらえるようなことは、謙虚に慎まなくてはなるまい。


なぜ携帯電話車内使用禁止?

■2001年06月07日

 「車内でのご使用は周りのお客様のご迷惑になるため、おやめください」というアナウンスが電車を利用すると耳にする。しかし、現状を見るかぎり、それほど効果はあげていない。 周りの迷惑を考えない、このような身勝手な行動は…などと書くと、どこぞの読者投稿になってしまうが、そんなことを言いたいわけではない。  車内での携帯電話の使用禁止とはいうものの、「何故いけないのか?」がわからない。

 有力な意見としては次の2つが考えられる。
 ?健康機器、ペースメーカーの誤作動を引き起こす恐れ
 ?着信音、通話といった騒音、マナー

 まずは?から考えたい。
 確かに人の命に関わることであり、ある程度の説得力はある。
 少数派、まして命がかかっているからには無視すべきではない。しかしながら、だからと言って、大多数の利益を無視してしまうのはいささか極端がすぎる。
 他人の死に関わる恐れがあるかもしれないということを言われるだけで、人はその問題に関する議論を避け、無節操に禁止や制限を受け入れてしまうのはよくない。

 第一、こんなに世間に携帯の電波が氾濫しているのだ。電車内での禁止だけでは対処できまい。これ対抗するには、人ごみに入らないなど自己防衛しかないのが現状だ。それに、携帯の電波のせいでペースメーカーが誤作動を起こし、人が死んだなんて聞いたことがない。
 明確な根拠もなく、ペースメーカーをつけた人への不安を煽ったり、ペースメーカーのせいで携帯が使えないといった対立構造を煽るような広告はうつべきではない。それに、仮に携帯電話の使用と、ペースメーカーの誤作動に関係性が立証されているならば、こんな状況を売上の影響を気にするメーカーが黙っている訳がない。
 医療機器については、機器と携帯電話の間隔を22cmほどとれば、誤作動はしないという報告がされているし、ペースメーカーへの影響は過酷な条件下の実験でも、生命に危険があるような状態にはならない、とも聞く。最近ではペースメーカーと携帯の両開発会社が改良を重ね、データによれば、極めて0%に近いレベルまで下がっているという。

 実際には、電車内での携帯使用者に冷たい視線を送る人間というのはだいたい「通話」を問題としている。ペースメーカーといった道徳上の問題からではない。その証拠に冷たい視線を送る人は通話と同じく電波が飛ぶ「メール」や「iモード」には寛容であるからだ。にもかかわらず、冷たい目で見る人に「何故使ってはいけないのか?」と聞くと、「ペースメーカーの影響」が必ず出てくる。「ペースメーカー」は車内での携帯電話使用に対して嫌悪感を示す人に正当性をでっちあげるために利用されている。嫌悪感のある人達と規制したい鉄道会社と利害が一致し、利用させないためのコマーシャルに心臓ペースメーカーへの悪影響をあげ、「ペースメーカーへの影響」「人間の命」「モラル」の大合唱をするのである。

 では、何故、鉄道会社がペースメーカーを制限の理由に使うようになったのだろうか?

 おそらく、「うるさい」といった?の騒音、マナーの苦情が多く、その対処ができないため、人の命がかかっているという人道的なものとしてペースメーカーをでっち上げたと私は推論する。
 これについては後で述べるとして、とりあえず、騒音について。

 確かに、急に鳴る着信音はたしかに驚くかもしれない、また、マヌケな着メロには腹が立つことが多い。友人に着メロを聞かす、あるいは自慢するために敢えて着信音を長い間鳴らしっぱなしという輩に私は遭遇したことがある。確かによい気分ではない。
しかしながら、これは電車だけに限ったことではない。道を歩いていても、学校にいても、店にいても、職場にいても、公園にいても、トイレにいても…もはや、この状況からは逃れられない。

 こうなってくるとますます、「車内での通話は何故いけないのか?」という疑問の解答は迷宮入りの様相を呈してきた。
おしゃべりがいけないとのか?
 車内では沈黙を守らなければいかないのか?
 それならば、新幹線など長時間乗る電車のウルサイ子供を何とかした方がいい。しゃべり可の部屋と不可の部屋を作るとか…
 長旅で疲れているってのに眠れないで困る人もいよう。
携帯での会話は一人、普通会話は二人以上である。
 どっちがうるさいのか?
相手の会話が聞こえないからダメという可能性はないか。車内ではみんな暇で他人の話を盗み聞きしている。それで相手の会話が聞こえないと消化不良してしまう。 つまり、携帯電話の使用を迷惑と感じるのは、会話の内容が片方しか聞き取れないことにある。会話の内容が全て聞き取ることができないため、片方の会話から、ついつい全体像を推測しているのだ。そして、そんな自分にイライラしたり、推測に行き詰まったりすると、それを勘違いして「携帯電話を利用している奴は迷惑だ!」と携帯使用者のせいにしてしまっているのではないか。
この説はかなり有力(?)な説であるように思える。

 よし、NTTやその他の携帯会社に提言っ!
 通話相手の声を聞こえるようにする機能を付けろ!JRやその他鉄道会社はその機能を使うように主張すればいい。

 …冗談はこれくらいにして。

 いろいろ考えてみた結果、私の結論はこうなる。

 携帯電話が使用禁止なのは鉄道会社が根拠なく勝手にルールを作り、我々を「車内での携帯の使用はマナー違反」と洗脳したにすぎない。
 他の場所では嫌悪感を感じず、電車内では嫌悪感を感じるのであれば、これこそ“洗脳"の影響に他ならない。つまり、携帯使用者に対して冷たい視線を送る人はこの“洗脳“の被害者なのだ。

 この説を「鉄道会社悪質洗脳説」とでも名付けようか?

先にも述べたとおり、苦情の対処として、ペースメーカーを持ち出したのだ。そもそも、鉄道会社がペースメーカーのためと言うならば、「車内では電源を切れ」とはっきり言わないといけない。しかし、実際によく聞くのは「他のお客様の迷惑となりますので、車内での携帯電話のご使用はおやめください」とアナウンスするだけのものである。これでは「通話」だけがだめ、という誤解を与えかねない。
「メール」や「iモード」などを使うだけでも電波は飛ぶのはもちろんだし、マナーモードなどで音が鳴らなくても着信するだけで電波は飛んでいるのだ。使用はしなくとも電源が入っているだけで電波は飛んでいる。よって電源を切らない限り、意味がないのだ。

 携帯そのものの苦情も最初は少なかったはずだ。小さな子供や女子高生の「会話がうるさい」ってのと同じレベルである。どこぞの器の小さい人間、はたまた、その時機嫌が悪い人がムシャクシャしていて、腹いせに苦情を言う程度のものだったのだ。しかし、会話がうるさいのに関して、鉄道会社は「車内での会話は禁止…」とは言えない。携帯に関してはまだ言いやすかった。当時はまだ携帯を持っている人間は一部だったということもあろう。
ここで鉄道会社は明確な理由もなく、一部の苦情に対処するために携帯の使用を禁ずる。ここで一般の人は電車での携帯を使わないのは「マナー」として脳に植え付けられたのだ。つまり「電車での携帯使用」=「マナー違反」となってしまったのだ。

それから、人々は携帯が鳴ると「マナーが悪い」と嫌悪感を覚え、顔をしかめるようになった。ここでのポイントはこれは「電車の中」という「公共空間」で通用するマナーにすぎないということだ。このように電車での携帯使用禁止を多くの人がすりこまれた。そこから、より多くの人が「電車内の携帯の使用のマナーが悪い」という文句、苦情を言う人が増えた。従来の規制の効果がないし、多くの苦情を無視するわけにもいかなくなり、ペースメーカーの誤作動の「可能性がある」という「噂」を聞きつけ、鉄道会社はペースメーカーを持ち出し、その「命の重み」を悪用して規制を強化したのだ。

 この仮説の立場によれば、携帯電話が車内で使っちゃいけないということを我々の脳にすりこんだのは鉄道会社であり、苦情が鉄道会社にいくことは身から出たサビであり、自業自得である。鉄道会社は『洗脳の罠』にはまったにすぎないのである。そして、携帯使用者が周囲から冷ややかな視線を浴びるのは、全て鉄道会社のせいである。

 そもそも、鉄道会社はあれほどむきになって「車内での携帯電話の使用は周りのお客様の迷惑となりますので…」や「ペースメーカー」という具合にモラルに訴えかけるだけで、全く企業努力などしていないではないか?新しいものを締め出すのではなく、それに適応した柔軟な対応をとっていくのが社会の役割ではないか。ペースメーカーなどの医療機器には、電磁波からの影響を防ぐ機能をつける。そして、鉄道会社は、使える車両と使えない車両を分けるなどの対策をしたらどうか?
 どうしても鉄道会社が「車内での携帯電話禁止」を主張したいのであれば、もはや「携帯使用可能」と「不可能」の車両を分けるしかあるまい。根拠としては、携帯電話もタバコも似たようなもの、と考えるのである。タバコを近くで吸われると不快に感じ、同様に近くで電話をされると不快に感ずる。しかし、喫煙者にとっては、禁煙は苦痛を伴う、ビジネスマンにとっても、携帯はもはや手放せない物なのだ。携帯電話というものは人々の主要な交通手段である電車を利用している際に電話を受ける・かける必要に迫られる状況が訪れるのは至極当然だ。周囲の注目を集めるような内容および声の大きさで携帯電話を車内という一種の個室で利用するのはやはりそれなりに問題であるが(といっても個人のモラル・羞恥心によりけりである)、利用そのものを禁止することは携帯電話を持つ意味をなくすものである。

 今の私は実際、電車で通話はしないし、着信音も消している。しかし、平気でメールもするし、電源は切っていない。

 私は携帯を電車内でも使っても問題がないと思っている。
 にもかかわらず、このような情けない行動をとらざるをえない状況に追いんだのは、「周りから冷たい目で見られるのが嫌」という以外、理由など全くありえない。
 この点で私は「鉄道会社悪質洗脳」の被害者ということになる。
 この洗脳を早く解くことこそ、必要があるのではないだろうか?そして、それはJRなどが責任をもって、おこなうべきだ。


狂牛病

■2001年11月22日
 精密検査の結果北海道で、2頭目の狂牛病(牛海綿状脳症)の牛が見つかった。
 国が「安全宣言」を出してから一か月余りが過ぎ、騒ぎが鎮静化しつつある中での、新たな判明である。
 台所の不安が広がり、関係者の痛手は大きいだろう。
 「一体、役所は何をやっているのか?」テレビでは焼肉屋やスーパーの店員、通行人などのインタビューが流れされている。このような発言を垂れ流すだけのメディアは不安を煽るだけで最低最悪である。
 このような発言は「安全宣言」の意味を勘違いしているにすぎない。
 国は「安全な牛が市場に出回る体制ができた」と言って安全宣言をしたのである。だから、今回の検査は全頭検査したからこそ、危険を未然に防いだのである。現在実施されている日本の食肉牛の検査基準は欧州より厳しい。二頭目の感染牛が確認されたことは、検査体制が機能していることを示している。二頭目が「いるかどうか」ではなく、「いつ出るか」が問題だったのだ。したがって、今回の発見で牛肉に対して過剰な反応をすべきではない。
 さらには、異常プリオンが集まる危険部位は脳、せき髄、目、回腸など特定の臓器だ。仮に感染した牛を食べても、特定の危険部位を食べなければ、感染する恐れは限りなくゼロに近いのだ。それらの臓器はすべて焼却されているし、現在の検査がきちんと実施される限り、問題のある牛の肉などが出回ることはない。
 政府は少なくとも次の4つのことはしないといけないだろう。
?検査のおかげで見つけることができたこと、今後の検査体制が万全であることを宣言し、実行する。
ようは安全だってことのPR。今回の牛も足がふらつくなどの外見的な症状はなかった。いかに検査が重要か再認識させられる。検査は2段階に分かれ、1次の簡易検査は全国の食肉処理場に隣接する検査所が担っている。ミス防止のためにも無理のない態勢と人員配置が必要だ。異常プリオンが蓄積しやすいせき髄が肉に付着する背骨の中央を切る現行の解体法や、作業現場でのせき髄吸入機の導入など技術的な工夫が必要だ。
?被害に対する救済措置。
需要低迷に苦しむ畜産農家、小売店、焼き肉店などの被害はいっそう拡大する。肉骨粉の焼却は大幅に遅れ、山積みになっている。全頭検査前の在庫肉も処理が難しい。
?感染源の究明。
一頭目の感染源もいまだ判明していない。このことが消費者を不安にさせている。感染の拡大防止のためにも、国は感染源の解明を急がねばならない。
?行政が変わること、責任の追求。
そもそも、感染源を突き止めることがなぜ困難なのか?汚染源と見られる欧州からの輸入肉骨粉が原因なのか、日本でできた肉骨粉による感染なのかを突き止める必要がある。日本で見つかった2頭ともホルスタインで同じ平成8年に生まれている。当時は乳牛のタンパク源としてコストの安い肉骨粉を与えていた。この年に英国で狂牛病と人間の新変異型クロイツフェルト・ヤコブ病との関係が指摘され、農林水産省が英国からの肉骨粉輸入を禁止し、肉骨粉を牛の飼料に使わないよう行政指導を始めている。英国から輸入された肉骨粉が感染源として疑われているが、関係者は一頭目も二頭目も肉骨粉を飼料に使っていないという。当時の輸入記録がずさんだったせいで、感染ルートの解明を妨げている。
安全性に疑いのある牛肉が出現したとき、流通から生産者までさかのぼって調べる「トレーサビリティー(追跡可能)システム」が、わが国にないのだ。EUから「日本も狂牛病に汚染されている疑いがある」との警告を受けながら、「日本は心配無い」と農水省が無視した結果である。いかに根拠のない、無責任なものだったのかを表している。
 農水省は先月末、やっと牛の両耳に番号を印刷したプラスチック製の札をつけ、データをコンピューターで管理する「総背番号制」を導入することを決めた。今年度中に全登録をすませる方針だが、遅すぎる。
 農水省は欧州並みに、店頭から牛の生産地まで簡単に追跡できる新たな食肉管理の制度を導入する方針だ。狂牛病はもちろん、食中毒などの場合でも、出荷ルートをすぐに特定できるという。
 今後は食肉だけでなく、野菜など他の食物まで広げていく必要がある。 縦割りを排し、生産から消費まで一貫して責任を持つ、「食」の危機管理のシステムを構築することも急務だ。
 他にもたくさん変える部分がある。今回のように食の安全を守れなかったのは、農水省の"業界"寄りの姿勢と農水族議員の圧力があったからだ。
 さらに、食肉処理場の入り口までは農水省、その後は厚生労働省という「縦割り行政」も、対応の遅れの要因となった。
 今後、3頭、4頭と感染牛の発見が続く事態も考えられる。
 その度に、消費者の間には、無策のまま日本に狂牛病の上陸を許した畜産・食肉行政の怠慢と不作為に対する強い不信が渦巻くことになる。 役所は行政の失敗を認めて、責任の所在を明らかにする必要がある。
 「日本は安全」と言い切り、欧州からの忠告を拒絶した農水事務次官が、その責任を棚上げにし、狂牛病対策の事務方を仕切っていること自体、行政不信を増幅させている。
 厚労相、農水相共同で学者や消費者代表らによる私的諮問機関「BSE(牛海綿状脳症)問題に関する調査検討委員会」を設置した。
 過去の失敗や今後の対策を考えるためであるはずが、11月19日の初会合開いたでは、狂牛病について問題提起をした研究者に、役所から圧力まがいの電話があったことなども報告された。 このような姿勢そのものが不信の根源であろう。行政が変わること、そして徹底した情報開示をすること、このことこそ一番必要だ。
≪おまけ≫
 狂牛病問題は、「食」ということを考えるきっかけを与えてくれた、そう思いたい。草食である牛に牛の肉骨粉を食べさせる自然の摂理に反した飼育が、今の狂牛病を生んだ。自然の摂理に反した、遺伝子組替え、クローンなどバイオテクノロジーも我々のリスクを増大させている。害が見つかっていないから食べてもいいのではなく、害があるのか、ないのかわからないからこそ食べてはいけない、そういう気がする。我々は効率至上主義の農畜産業のあり方の再考を迫られているのではないだろうか?